助成金の申請代行が得意な社労士、助成金申請代行専門「社会保険労務士事務所はじめ」です。

労災〜実話〜

私が社労士事務所はじめを始めるにあたり、どうしても触れておかないといけないことがあります。
それは社労士を目指すきっかけとなったある悲しい労災の死亡事故です。
今から約18年前、私が国家公務員の法務事務官(大阪刑務所の刑務官)を辞めて、縁あって阪神高速のグループ会社に入社し、総務課の仕事にも慣れてきた頃のことです。

平成3年1月4日の正月明けの仕事の初出の日の明け方に阪神高速の本線上で起きました。
その初出の日、事務所に着くと、なぜか事務所の中が騒がしく悪い予感がしていましたが、課長に呼ばれて支店長室に行きました。
そこで、支店長から、現場の収受員さんが車にはねられて死亡したことを聞かされました。

そして元国家公務員で役所に詳しいはずとの理由で、この労災事故の担当をするように命じられました。
突然の話で何もわかりませんでしたが、上司である課長も適任と思うので、できるだけ協力はするので頑張るようにと、半ば強制的に引き受けることになりました。

その頃の私は、毎月の300人程の社員の給与計算と社会保険の入退社の手続きや労働保険(労災保険、雇用保険)の保険料の計算、入退社の手続きその他、人事関係の申請などを女性社員と2人で行っていました。

ですから、労災の死亡事故のことなど何も詳しくはわかりませんでした。

実際に、労災の手続きが動き出したのは、葬儀なども終わり、ご遺族の方の気持ちが少し落ち着かれた事故から1ヶ月程が過ぎた頃からでした。

それまでにお通夜や葬儀の手伝いにも加わりました。
普通私傷病で亡くなられた時は、あまり会社はこのあたりのことには深くかかわらないのでしょうが、勤務中の事故で亡くなられたのですから、葬儀も社葬で行われ、社長が喪主を務められていました。

お通夜の時も、ご遺族たちは泣き、又お通夜の時刻に、本人の遺体は司法解剖のために安置されておらず、そんな中で、お坊様の読経、式場のあちらこちらから聞こえてくる泣き声・・・嗚咽。
そのうち、司法解剖が終わったと帰ってきた遺体は、包帯でぐるぐる巻きにされてミイラのようになったものでした。

なんとも言えぬ光景・・・地獄のようでした。

その場から立ち去ってしまいたいような気持と、内心、大変なことの担当を引き受けてしまったとの不安な気持ちで私自身が壊れそうでした。

そんな状況もなんとか乗り越えて、ご遺族、主にご本人の奥様とご長男、ご次男と、話の場を持つためにご自宅へと足を運びました。
それと並行するように、労働保険(正式には労働者災害補償保険法)の手続きを受け持つ厚生労働省の、当時は労働省の所轄である労働基準監督署にも行きました。

最初に、私傷病報告書という事故報告書を、届出事例を見ながら作成し届けました。
その際、担当の監督官から、いつ来るかと待っていたこと、死亡事故を担当する者(私のことですが)若いので驚きであり、それも一人でやってきたので、課長とか部長とかの上司は来ないのか、と再度不思議そうに聞かれました。

それから、報告書にすばやく目を通され、開口一番

「これはダメだろう・・・考えてみてください。
高速道路の本線上ですよ。
一般道ならまだしも、高速道路の本線上を人が横断するなんてドライバーは危なくて走れないですよ。
本人の過失は重大ですよ。
非常に難しいですなあ・・・、認定を受けるのは・・・」

この言葉を聞くや、頭の中が真っ白になってしまいました。
それに監督官が言っているように、普通死亡事故の場合、私のような若者ではなく、 しかるべき役職の者が来るでしょう。それも一人ではなく部下を連れもってです。
それぐらい重大な事故、労災の中でこれ以上ない事案であったのです。

今ここで私がこの重責から降りても、誰も社内では責めることはできないし、課長や部長が出てきた方がご遺族の為になると自分に言い聞かせ、ご遺族に経過と状況報告に行きました。

自分が入社してまだ浅い労災の知識も何もない未熟者で、社内には自分よりも経験のある課長や部長がいるので窓口になってもらう方がご遺族も安心できるのでは、と伝えました。

すると、年老いた奥さんは目に涙をためて

「どうかお願いします。会社の偉い方はもういいんです。
あなたにお願いしたいんです。どうかお願いします。
あなたが引き続き担当してくださるなら私たち何も言うことはありません。」


と言われました。

奥さんが言われるように、確かに会社の上の方たちは、次第にご遺族のところへ来る足が遠のいているように私も多少感じていました。時間が少しだけ止まっているようでした。

記憶が薄れていますが、奥さんに、
「引き続いて頑張って行きましょう。私も頑張りますから」
のようなことを言ったと思います。

それ以後、再度異様なプレッシャーに押しつぶされそうになったと思いますが、ご遺族と労基署を往復する日々が続きました。

しかし、あまり良い方向へは進まず、ある時、いつもの労基署の監督官の前でとうとうあろうことか愚痴を言ってしまいました。
「労基法も労災法も難しいですわ。
まだ監獄法(現在刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律です)の方が私にはわかりますよ。
監督官はやっぱり優秀なんですね。」


と半分やけ気味でした。
 
すると、
「君はなぜ監獄法なんか知っているの?」
「はい、私はここに来る前7年ほど法務事務官として大阪刑務所で刑務官をやってました。」
「へえ〜、それは国家公務員やろ。なんで辞めたんや、7年ぐらいやってたら辞めんやろ、 もつたいないやないか・・・。悪いことして辞めさせられたんちがうやろな。」
「はい、悪いことをして辞めさせられたんとは違います。刑務官の仕事は好きでしたが、自分の意思で決めたんです。嫁や家族みんなに心配かけてる大馬鹿者ですわ」
「そうか、そうやったんか、それやったらこの仕事で頑張らななあ。 けど、難しい事故事例やが頑張れるんか・・・」 
「はい、ご遺族のため死ぬ気でやりますわ。」
これ以後、監督官と不思議と親しくなり、労災についての実務的な知識を教えてもらうことができて、進まず止まっていた労災申請の手続きが再度動き出しました。

進んでいくうちに、やはり本人が高速道路の本線上を渡ろうとして車にはなられたことの過失についての説明が非常に重要であると思えました。

どのような状況において収受員さんは車にはねられたかと言いますと、

高速道路の入口料金所で、障害者割引のために手帳を出したお客さんが手帳を受け取らず走り去りました。 その後手帳を渡したままであることに気づかれ、出口料金所に来られました。
入口料金所で勤務していた亡くなれた収受員さんが、夜間で車の通行も少なく、入口と出口はわずか10mぐらいの距離であったことから、本来なら閉鎖の時などしか出ることのないブースの外へ出て、出口料金所で待っているお客さんに障害者手帳を届けようとしました。
そして本線上を渡ろうとした際、高速道路くぼみに足をとられ転倒してしまい、たまたま通った車3台に次々にはねられて死亡されたのでした。

まったく親切心からおこった非常に気の毒な事故でした。

過失についての状況説明が非常に大切で、逆に説明によってそのような危険な行為を会社はどのように対処していたのかと安全配慮義務責任を問われる部分でもありましたが、監督官の助言もあり、当時定年退職を近々控えていた古参の現場の仕事を一番よく知っている副所長の協力を得て、監督官の前で証言をしてもらいました。

当日の亡くなった収受員さんの行動はやむを得ずと説明するに十分な証言であり、会社の安全配慮義務についてもきちんと説明されたすばらしい証言でもありました。

監督官が教えてくれた、まさに現場を一番よく知っている者の証言が重要との助言がドンピシャ当たった感じでした。

しかし、古参副所長の証言は真実を伝えたものであり、常日頃の巡回時の基本の徹底(ブース外に出る際は、昼間はヘルメット、蛍光チョッキ、赤旗、夜間はヘルメット、蛍光チョッキ、赤色灯の携帯)を意味していました。
なぜなら亡くなられた収受員さんは、ブース外に出た際、基本通りヘルメットをかぶり、蛍光チョッキを着て、手には赤色灯を持って出ていたことが判明していました。

このことが決め手となり、その後、本人の過失はありとされましたが、国は労災の認定を認め、遺族に遺族補償年金の満額の70%は支給するという結果につながることができました。

遺族補償年金受給決定の知らせを受けて、ご遺族全員から「ありがとうございました。」との感謝の言葉をいただいた際には、さすがにホッとしました。

事故発生から認定が降りるまで、かなりの時間と労力を費やしましたが、人からありがとうと感謝されることの素晴らしさを教えてもらいましたし、人との出会いの不思議と大切さも知ることができました。
本当にこのときの経験がなければ、社会保険労務士を目指していたかどうかわからないし、あの苦しく厳しい社会保険労務士の国家試験を乗り切ることができたかもわかりません。
この社会保険労務士業を通して、こんな私でも、世の中の困っている人のために役に立てれば幸いです。
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